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4/24/2002


ハンス・ビュルキ師『主の弟子となるための交わり』(いのちのことば社)より。(最近読み直したときに、心にとまった箇所)



「私たちの時代は、感情過多を知り過ぎるほど知っています。私たちは感覚からあふれ出てくる過剰な表現に慣れっこになっています。……

「過剰な表現の追求について語るとき、私は映画の広告や新聞のことだけを考えているのではありません。…宗教の世界においても、大げさなものを追求する傾向が、あまりかんばしくない影響を与えているように思われます。

 自分の信仰の現れ方に対して私たちがもっているイメージは、本当の信仰が明らかになったとき、それを認める妨げになっていないでしょうか。『聖なる』信仰生活、『確かな』信仰生活とは、大きな苦しみや挫折、ヴィジョン、妄我、また英雄的勝利などに彩られたドラマチックな生活であると考えていないでしょうか。
 なるほど信仰は力にあふれた奥深い現実、感動的で持続的な現実です。しかしながら信仰に関わる偉大なものはみな、目立たないようなかたちで生き、働いているのです。このことは根本的にすべてに当てはまります。……

「神の臨在と働き、神の愛の啓示、神の恵みの支配は、穏やかに、静かに、当たり前のことのように起こるので、キリスト者と称する人でも、多年にわたってしばしば誤ったものの中に神の恵みを見、求め、とらえ、待ち望みます。神が私たちのもとにやって来られるに先立って、嵐、雷、地震が起こることもあるかもしれません。しかし神が人間のもとにいるときには、穏やかで静かな風の中に姿を隠されるのです。(第一列王19:12参照)神の臨在は、神を信じ、神に従う人々の心の内に、一点の疑念の余地もない明るさに包まれた新しいいのちを生み出します。この明るさは無頓着や浅薄さではなく、大人でありながら無邪気になること、不安から解放された弟子としてのあり方を意味しています。
 多くのキリスト者のふるまいは、どうしてこれほど不自然で作為的なもの、背伸びした自意識過剰なものに見えるのでしょうか。彼らの信仰は外界の一部のようなもの、自分にとってよそよそしいもの、単なる付け足しにしかすぎないのです。
 自分で理解できないような生活のあり方や働きのありようは、自分の外部にあるのであって、内部で統合されたものではありません。この場合、自分が何をするか、自分が何であるかがいつも気にかかります。自分がどうふるまうべきかを確定しようとします。自分が達成したいと思うことをみな意図的に行います。
 そのような人の場合、自分のすることなすこと、生きること体験することに、絶えず『私は何々すべきである』という重圧がかかります。生活の中で絶え間なくこの要求に直面していると、魂は慢性的疲労状態に陥ります。私は祈らなければならない、聖書を読まなければならない、もっと平和、信仰、喜びを現さなければならない…と。

 このような圧迫感のもとでは、キリスト者としてのわざは、それが実際になされた場合、わざとらしいもの、計算ずくのもの、それ自体不自然なものになってしまいます。自分を若く見せたいと願う老人と同じような印象を他の人に与えます。そのようなライフスタイルは本物ではありません。その信仰の働きは低俗で、硬直して生気がなく、時として非人間的になります。……」(第六章 信仰の現れ方 より)

「『目立たない』は『目に見えない』と同じではありません。信仰生活は目に見えない世界に目を向けますが、そのような世界にとどまるわけではありません。信仰は、目に見えないもの、知性や感覚で認知できない現実を見ます。目に見えないものを、目に見えるもの、感覚的なもの、身体を伴ったものの中に移し入れ、注ぎ込みます。
 『イエスのいのち』(第二コリント4:11)は、人間の身体において見えるものになりました。日常生活を成り立たせている目立たない準備や活動のあり方はすべて、身体を伴ったいのちに属しています。
 日常生活は最も目立たないものであり、私たちの営みをかたちづくっているものの中で、最も無視され軽視されています。語る、食べる、飲む、眠る、歌う、悲しむ、働く、疲れる、気分が悪くなる、衰弱する、回復する、遊ぶ、身体の手入れをする、座る、横になる、立ち上がる、歩く、見る、手で押す、声を出す、手紙を書く、会話する、泣叫ぶ、笑う、失望する、希望する、洗う、髪の毛をとかす、整頓する、骨折る、日ごとの課題を果たす…などです。
 私たちの生活は日々の事柄から成り立っています。どんな高貴なこと、偉大なことを経験し、考え出そうとも、日常生活に移し替えなければ、いつまでたっても実りはなく、それ自体として現実性はありません。この日ごとの生活こそ、信仰による変革の出発点なのです。信仰のかたちは日、週、月、年と区切られる目立たない時の中で、だれにも気づかれずに成長し、『イエスのいのち』が内側から、私たちの存在と働きの最も取るに足らない細部、最も瑣末な細部に至るまで現れてくるのです。最も一般的なことを、つまり日常生活を包括し、貫き、変化させる信仰でなければ、非現実的なものーー頭だけの信仰、表面的な信仰になってしまいます。 ……

「…神に仕え、神を誉め讃えることは、他の行為から切り離された宗教的行為だけでなく、楽しくも喜ばしい身体の日常的な活動形態の中に認められるものです。ですから以下のみことばも同様のことを語っているのです。『あなたがたは、食べるにも、飲むにも…神の栄光を現すためにしなさい。…自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい』(第一コリント10:31、6:20)

 日常生活の中で、永遠のいのちを実現される方としての神の栄光を現し、神を喜ぶことです! 私たちはこのような生活へと召されているわけです……」 (第七章 信仰のかたち より)


4/25/2002


昨日の日記で長々と引用したハンス・ビュルキ師が、日本時間の24日(つまり昨日)夕方、77歳で主のみもとに召されたということを、今朝になってから知った。不思議な偶然にびっくりするとともに、一度も御会いしたことのなかったビュルキ師が、私の信仰にどれだけのインパクトを残されたかを改めて思った。

先日召された片岡伸光師もビュルキ師とは親交があり、多くの影響を受けていたらしい。また私が敬愛する HREF="http://www.jcfn.org/">JCFN理事の上沼昌雄師や唄野隆先生もビュルキ師から多くを学ばれた方々である。(私が『主の弟子となるための交わり』を読んだのも上沼師の勧めだった。)私が片岡先生や上沼先生から学んだと思っていたことは、実はもとをただせばビュルキ師から受け継がれたものだったことに気付かされた。

ところで『主の弟子となるための交わり』だが、タイトルが示す通り、この本のメインのテーマは『聖徒の交わり』だ。ビュルキ師は「人間は本来的に共に生きる存在で」あると言う。私たちは人との交わりのなかでこそ、信仰と愛を具体化することを学び、服従と規律を学び、鍛練されていくのだと教えている。そして聖徒の交わりを通してさらに深くキリストを知るようになる。昨日引用した箇所からはあまりそれが伝わらなかったと思うので、一応付記しておく。


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いつだったかアーサー・ホーランド師がこう言っていた。「キリスト教というのはねぇ、Religion(宗教)じゃないんだ、
Relation(関係)なんだ。ボク発音いいでしょう? 何たってハーフだからね。」


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ウズベキスタン航空 HY527便 22:22ランディング 22:30スポットイン(搭乗ゲート到着)














22:40、到着ゲート。 お帰りなさい。元気そうで何より。一段とたくましくなったように見えました。






なお、8月20日に、お母様が手術を受けられるとのことです。覚えましょう。













 
毎年、夏の終わりに開かれる関空夏祭り。今年は関西国際空港ができて10周年ということで、ふだんよりにぎやかなイベント。

期間中は、関空の連絡橋が無料開放ということで、車でいざ関空へ。


エアロプラザという建物にあるイタリアン・レストランで昼食を食べた後、2本目の滑走路を建設中の二期工事現場へ。




砂で、実物大のジャンボ・ジェット機の大きさの絵を書こうというイベント。





関空二期工事造成のための土を運ぶ大型ダンプ。ボブ・サップもこんなに小さい。 お値段なんと9630万円なり!











小型パワーショベルを操縦させてもらってのカラーボールすくい。




あっという間に夕方。子どもたちにとっては、楽しい一時。


(それにしても、関空二期工事が進行しているけれど、税金の無駄遣いとしか思えないんだけどなぁ・・・。)


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